少し前に当ブログでも作り方を紹介しましたが、思い出の古いタオルで雑巾を縫ってから、雑巾を手にする機会が増えました。


>> 手ぬい雑巾の作り方
>> ちょっと厚めの しっかりした雑巾の作り方

それがきっかけだったのかどうか、ここ最近、お部屋の模様替えを含めた大掃除をしています。
気持ちがそっちに向いているので、編みものや縫いもので手を動かす時間が極端に減ってしまい、ブログの更新頻度も下がりがち。もうしばらくこの状態は続きそうです。



さて、そんな「お掃除」に気持ちが向いている時に手にした本が、金閣寺・銀閣寺の住職が書かれた『「雑巾がけ」から始まる 禅が教えるほんものの生活力』です。

ぶれない、動じない、禅僧の「胆力」は、体得した生活力あってこそ。
雑巾の絞り方から台所仕事、筆文字まで、日常生活の作法を高僧が逐一指南。
無駄の無い、理に叶ったからだの所作は美しく、心も調えてくれる。

有馬/頼底
1933年東京生まれ。臨済宗相国寺派管長、相国寺・金閣寺・銀閣寺住職。京都仏教会理事長。久留米藩主有馬家子孫(赤松流)。相国寺内承天閣美術館管長。八歳で親元を離れ大分県日田市の禅寺で得度。1995年から現職。当代随一の茶人のひとり。美術、歴史に詳しく能筆としても著名。物言う禅僧として京都ほかの文化財保護、伝統文化継承にも力を入れる

引用元:Amazon

タイトルから、禅的お掃除の仕方みたいな内容かと思ったのですが、お掃除だけでなく、日常のあらゆることに触れられている、とても内容の濃い1冊でした。

典座(てんぞ/食事に関する一切の役割)の章にあった、胡麻を煎ることから始める胡麻豆腐は、そのうち是非作ってみたい一品です。

無心に胡麻をする、無心に煉る 胡麻豆腐つくりは 無心の練習にもってこいです

編みものや縫いものも無心の練習にもってこいだと思いますが、胡麻豆腐つくりもそうなんですね。

前置きが長くなってしまいましたが、『「雑巾がけ」から始まる 禅が教えるほんものの生活力』の中で、雑巾についてどのようなことが書かれているのか、少しご紹介しますね。



雑巾のあつかい方

雑巾のあつかいのポイントは、拭く場所によって絞り方を変えること

だそうです。

『絞り方を変える』というのは、つまり水拭き(本書では『濡れ拭き』と言っています)と乾拭き(からぶき)を使い分けるということです。

乾拭きをする場所は、床の間などの大切な場所や畳、障子の桟など。水拭きは廊下や板の間など。

ところで、乾拭きってどんな状態の雑巾を使うかわかりますか?わたしはこの本を読んで、長年勘違いしていたことに気がつきました。

乾拭きというと、乾いたままの雑巾でするもの、そう思っている方はけっこう多いようですが、実はそうじゃないんですね。雑巾がけに関しては、ほとんど水気がないくらいによく絞った雑巾を使うのが、乾拭きです。乾いたままの雑巾では汚れがくっつかないので、拭く場所によっては逆に汚れをなすりつけてしまうことにもなりかねません。

よく絞った雑巾で、濡れてシミなどになってはいけない場所を拭き、適度に絞った雑巾では床などを拭くということですね。

窓ガラスについては例外で、水拭きをした後、更に濡らしていない乾いた雑巾で拭くことで、拭いた跡を残さずにきれいに仕上げられるそうです。

お掃除に関しては、雑巾がけの他に、ハタキの使い方、ガラス窓の拭き方、トイレのお掃除などについて、禅寺流の方法が紹介されています。



『そこから去る、それだけのことです』


この先は、雑巾の話題から離れ、本書で心に留まった箇所をいくつかご紹介しますね。

怒鳴られたり、ど突かれたりしているたびに思い詰めていたら、僧堂ではいくつ命があっても足りません。(中略)

学校に出て社会に出れば、理不尽なことだらけです。上司のミスを押しつけられたり、無理難題をふっかけられたり。でも、そういうことがあるんだということを受け止めて、それに負けない自分にならないと。

雑巾で叩かれたら、叩かれないような雑巾の使い方を覚える、食事の支度が間に合わなかったら、次は間に合うための段取りを考える。落ちこむエネルギーを、乗り越えるエネルギーに転換する。それでもどうしても耐えられなかったら、そこから去る、それだけのことです。

いじめで自殺する子どもがあい変わらず大きな問題になっていますね。子どもはまだ世界が小さいから、自分の力では「そこから去る」方法論がわからない。いま自分がいる場所だけがすべてだと思ってしまう。だから唯一の道は、死んで自分がいなくなることだ、と思ってしまうんですね。

「10代、20代の頃にこの本に出会っていれば、もっと早くわたしも楽になれたのに」と思えた文章です。

わたしも今は、これと似たような考え方を持っていますが、自分の体験を積み重ねた上でこのように考えるようになったのは、30歳を過ぎてからです。

今時分がいる場所で、自分なりに努力する。

人との関係も、相手は簡単に変わらないから、自分の考え方や接し方を変えてみる。。。でも、限界はあります。ここまでは変えられるけど、この先は変えられない、変えたくないという境界線みたいなものです。



そこまでは精一杯やってみるけれど、それでだめなら、その場を去ります。自分なりにやるだけやって去るときは、自分で納得しているので、周囲に何を言われようと気になりません。

「逃げ場がない」と思ってしまうと、悪い方向に向かってしまう気がします。いつどんな状況にいても、自分の外の世界は開いているんですよね。

ただ、自分ではどうしようもない、変えられない状況もあります。去りたくても去れない時もあります。

そういう時は、その状況を(受け入れたくなくても)受け入れるよう心がけています。状況を受け入れられると、自分が今その場でできること、すべきことが見えてきたりもして、前向きに行動できるようになるので不思議です。

こういうことがわかるようになってくるから、年を重ねるって素敵なことなんですよね!



『怠れば、すぐに崩れてしまう』

人間、何かを身につけるには大変な時間や努力を必要としますが、逆は簡単で、ちょっと気を抜いたり、怠れば、すぐに崩れてしまうものなんですね。

バレリーナも、一日休めば自分にわかる。二日休めば仲間にわかる。三日休めばお客様にわかる、といいます。庭だって、一日掃除をしなければ、もとの状態に戻すには二日かかる、そういうものです。

ぐさっと心に突き刺さりました。。。なぜなら、今年に入って半年間、毎朝欠かさず続けていた朝のヨガを、ただいま絶賛さぼり中だからです。

毎朝半年間を達成し、気が緩んだのかもしれません。さぼり始めるとあっと言う間に、毎朝が週4日になり、週2日になり。

続けていた時は、多少面倒に思っても、ヨガマットを敷いてしまえば身体が動きましたが、今はヨガマットを敷くまでのハードルが高い。明日からまた頑張ってみます。



『あなたがしたことは、すべてあなた自身に還ってくる』

禅では、「人のために何かをしようと思ったらいかん」といいます。他人のために何かをすることで、人は無意識のうちに見返りを期待しがちだからです。見返りを期待すると、誰かが見ているから頑張る、誰も見ていないから手を抜く、そうなりがちです。人のためでもなく、自分のためでもなく。人が認めようと認めまいと、自分はやるべきことをちゃんとやる。そうでなくてはいけません。(中略)

自分がしたことは結局、自分自身に還って(かえって)くる。良くも悪くも「誰かのため」は、「自分のため」と同じことなのです。

たまに「そうあれない」ことがあるかもしれない、、、いや、たまにあります。



『手をかけてつくったものを無駄にできますか?』


↑このカーディガンの掲載本についてはコチラ

時間と手間をかけて、知恵を絞って、つくる大変さを味わっているからこそ、大切に食べる、大切に使うという気持ちもわいてくるのではないでしょうか。

手づくりをされる方は、きっとみなさん同じ思いですよね。

たくさんお金を出さなくても、それなりのモノが簡単に買えてしまう現代だからこそ、手づくりはある意味贅沢なことのように感じます。

>> 『自分の着る服がどこから来て、誰が作ったものか、考えたことがありますか?』
この本もオススメです↑



『「目の前のいま」に集中する』

現代は、なんでも「ながら」の時代になっていて、食べながらテレビを見る、歩きながら携帯電話で話す、そんなのは当たり前。(中略)

「ながら」でしたことは、同時にふたつのことをして得しているのではありません。実はどちらも中途半端。つまり、どちらもしていないに等しい。

ですから、禅では、徹底して「目の前にあること」、「目の前のいま」に集中せよ、と叩きこまれます。

編み物をしながら映画を見るのが大好きなので、この「ながら」はやめられません。。。

が「いまは何をやってもうまくいかない時期だな〜」と思う時は、あれこれ先のことを考えず「今、目の前にあること」に集中すると、うまくいかない時期も上手に乗り切れる気がします。

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