1年前の今日5月23日(月)、医師から母の余命を告知されました。
あれから1年が経ち、今日、母がいない初めての誕生日を迎えました。

去年の今頃、母は1年半ほど前にステージ3で発覚した直腸ガン(その後腹部への転移が見つかりステージ4)の闘病中でした。
母の闘病中、一時的にイギリスへ戻っていた期間を除いては、病院への付き添いは私がしていました。
去年の5月23日も、朝から病院の予約がありました。
ところが、この日は私の誕生日だったため、夫が近くの温泉旅館を予約してくれていました。
また、叔母(母の妹)が数日前から訪ねてきてくれていたので、病院の付き添いを叔母に頼み、夫と私は駅のカフェで、旅館へ向かう電車の時間を待っていました。

入退院や通院・介護申請などの事務手続きのあれこれ、在宅介護など、初めてのことだらけの忙しい日々だった当時。
母のことは心配だったものの、父もいるし叔母も来てくれているし、久しぶりに夫と2人でゆっくりできるのを楽しみに、電車の時間を待っていました。
そんな時、母の主治医から着信がありました。
主治医:「今、お母様と妹さんが見えているのですが、娘さん(私)は今日来られますか?」
私:「いえ、今日私は伺えないのですが」
主治医:「お母様の妹さんにご説明してもよろしいでしょうか?」
私:「はい、お願いします。特に前回から大きく変わったことはないですよね?」
この頃、母は体力も体重もだいぶ落ち、1人で歩くことはできなくなっていました。状況は良くはないこと、回復への道は簡単なものではなさそうだということは分かっていました。
しかし「前回」病院へ行ったのは3日前の金曜日だったので、この日、何か重大な話をされるとは予想していませんでした。
主治医と話しているうちに、深刻な状況だとわかり「今から向かうので30分以内に到着します」と告げて、電話を切りました。

病院に到着した時、母は処置室のベッドで点滴を受けていました。
母に会う前に、まずは主治医と面談しました。告げられたのは「今晩という可能性もある。2〜3日を乗り切れば余命1ヶ月。」というものでした。
母は全身状態が悪いため、点滴を終えたらこのまま入院。「これが最後の入院になる可能性があります」とも言われました。

主治医から説明を受けた部屋を出ると、看護師さんから「お母様の点滴が終わるまであと20分ほどあります。そばに居られますか?」と言われ、処置室の簡易ベッドに横になって点滴を受けている母の元へ向かいました。
今思い返してみても、この20分間が1番辛かった。
病気が発覚した時よりも、余命を告知された時よりも、母を看取った時よりも、この時が本当に辛かった。
「母の命が、今晩尽きるかもしれない」と知ったばかり。
でも、母はまだ何も知らず(その後本人に余命告知はしました)、悲しい顔はできない。
何を話せばいいのかわからないけれど、一瞬でも沈黙してしまえば、途端に涙があふれてきそうになる。
当時はまだコロナのため、入院病棟への出入りは厳しく制限されており、家族といえど特別な理由がない限り、入院した患者に会うことはできませんでした。
母に話しかけながら「これが母と会う最後になるかもしれない」「できるだけ長く手を握っていたい」という思いと、「もうこれ以上、ここにいるのは耐えられない。」「まだ20分は過ぎないのか」という思い。母を失いつつあるという悲しみと、母のそばにいられる嬉しさと。
頭の中も心の中も、ごちゃごちゃでした。

点滴が終わり、入院病棟のベッドも準備ができ、車椅子で移動する母に「またね」と言うと「うん、ありがとう」と返ってきました。
そのすぐ後で、車椅子を押してくれていた、すっかり顔なじみになっていた看護師さんに、母が「病棟行く前に、ちょっと買い物したいから売店寄ってもらえる?」と言っているのが聞こえました。「母に明日はないかもしれない」と思うと「ちょっと買い物をしたい」というその母の言葉がせつなく、心に重く響きました。

母を入院病棟へ見送ると、(病棟出入り禁止のコロナ禍では)家族は医師からの緊急連絡を待つ以外、母のためにできることはありません。
夫が予約してくれていた旅館は、当日ということもあり、当然予約のキャンセルや変更は不可能でした。
夫は「宿泊を中止してもしなくても、どちらでも構わない」と言ってくれましたが、叔母が「行ってきなさい。あなたのお母さんだって、そう言うと思うよ。」と背中を押してくれたこともあり、病院からそのまま旅館へ向かいました。旅館は病院から車で行ける場所にあり「たとえ何かあってもタクシーなどで駆けつけられる」のも、予定を変更しなかった大きな理由でした。

その時に宿泊した旅館は、新潟県岩室温泉にある「著莪の里 ゆめや」です。
数年前に母と2人で宿泊した、思い出の旅館でもあります。
この1年間、この時の写真を見ることができなかったのですが、昨日携帯に残っていた写真を見返しながらブログ記事にしました。ほぼ写真を貼り付けただけのような日記ですが。。。自身の備忘録として残しておきたかったので、まとめられて良かったです。(記事の公開年月日は宿泊した当時に合わせています)
↑宿泊記を見ると、のんびりゆったりした2泊3日だったようにも見えますが、実際にはそうもしていられない事情がありました。
夫はこの数日後にドバイ出張やイギリスへの帰国を予定していたため、仕事の調整や航空券・ホテルの変更&キャンセル。また夫のビザの期限が迫っていたため、その更新をしなければならなくなり、そのための問い合わせや予約、書類作成…などなど。
もちろん、感情の大波も寄せては返し。
ゆめやさんは食事が美味しいことで有名なのですが、正直砂を噛んでいるようだったのは、もったいなかったけど仕方がない。目では十分に楽しみました。

母は「今晩かもしれない」と言われた最初の2〜3日を乗り切り、その後一時退院もしました。
そして余命告知から4ヶ月弱後、69歳で旅立ちました。

お誕生日の朝、余命告知を受ける数時間前の 母とのやり取りです。
(イギリスで画面を開いているので日時が英国時間になっていますが、日本時間で23日朝の6時台です)
母の余命を告知されるという「悲しい1日」だったけれど、母に「ありがとう」と言えた「嬉しい1日」でもありました。
病院でのあの20分間がとても辛かったからか、数週間前から今日を迎えるのが、怖かったのです。
無事に今日という日を迎えられて、ホッとしています。
今年は、父に「命をくれてありがとう」と伝えました。